寺尾地区の歴史遺産を古い順から紹介します。
先ず5~6千年前の縄文時代の「寺尾貝塚」が新河岸川を望む台地で沢山の発見がありました。竪穴住居の周りに有ったと考えられ、昔、この地が大海原であったことが分かります。
「勝福寺」は中院の末寺で平安時代に慈覚大師が開いたと伝えられ、寺尾の地名も「寺尾山 勝福寺」からきているといわれています。
境内には建長3年(1251年)に建てられた貴重な板碑(青い石でつくった墓)がきちんと据えられています。又、寺の前庭には「槇の巨木」があり、室町時代につくられた「寺尾城」の城の物見に使われたといわれています。
その他、寺尾調節池には徳川家康や家光がこの地を訪れて、鷹狩りをした名残りで「新鷹匠橋」が建設されており、寺尾には近くに鷹匠も住むんでいたようです。皆さんも寺尾を訪れ、縄文時代から江戸時代の雰囲気を味わって下さい。
周辺地域の歴史スポットと自然
(■槇の巨木⇒後日、追加予定)
■後原公園
(■石神社(おしゃもじ様)⇒後日、追加予定)
(■新河岸川(寺尾河岸・湧水地)⇒後日、追加予定)
参考文献
1)武蔵野風土記稿 高階図書館
2)高階村史 同上
3)「中世びとの祈りⅡ-板碑のある風景-」川越市博物館
4)「 わが町川越歴史散歩―小江戸散歩の残照」 小泉功
5) 埼玉県 平成10年新河岸川「激特事業」
日枝神社について(寺尾字寺側641番地)
寺尾の鎮守様である日枝神社は江戸時代には山王社と呼ばれていましたが、明治初めの神仏分離により勝福寺の管理(別当)を離れ、明治5年に日枝神社と改称して村社となりました。
主祭神は大山くいの命(農業の神)で、境内末社は菅原神社・稲荷神社・厳島神社の三社です。祭りは元朝祭・春祭り・秋祭り・新穀祭の年4回となります。
現在でもお祭りには地元の「寺尾囃子連」や「子供囃子連」が参加して雰囲気を盛り上げています。
古来、当地区の小字(原・久保・後原・河岸)にはそれぞれ稲荷社の小祠があり、三月初午には皆集まって飲食し合う「オビシャコウ」という風習がありました。
毎年7月末、自治会主催で境内で行われる「てらお夏祭り」はその面影を残しています。
神社入口 靖国鳥居
拝殿
勝福寺について(寺尾640番地)
天台宗の寺で山号寺号を「寺尾山蓮乗院勝福寺」といいます。
本尊は二尺(約60cm)の阿弥陀三尊像で開祖、慈覚大師の作と武蔵野「風土記稿」は伝えています。鎌倉時代の末期に一時衰退したが建武元年(1334年)秀海法師が復興しました。
寺はもとは現在の南側の一段低地にありましたが、火災で焼失した後、高台に再建したとされています。ただし、本堂は古い材料を再利用しています。
勝福寺
阿弥陀像と板碑
勝福寺墓地内にあって、高さ1.5m、座福2m弱の阿弥陀如来像が阿弥陀堂に安置されています。
昭和57年の修理の際、胎内から長さ60cm、幅30cmほどの板木が発見されました。仏像修復の記録で、1703年寺尾山蓮乗院勝福寺28世堅者法印秀講が、武州川越中院34世秀順大僧正や近隣の僧を招いて法要を行ったことが記されています。
阿弥陀堂脇には勝福寺が誇る青緑色の板碑が佇んでいます。鎌倉から室町時代の約370年間につくられた貴重な文化財です。石材の厚みが14cmと普通の板碑に比べて群を抜いた存在感を誇っています。
阿弥陀如来像
板碑
寺尾後原(せどはら)公園と寺尾貝塚について
寺尾地区で唯一の都市公園として寺尾後原公園(952m2)があります。
2004年(平成16年)4月18日に川越市長も参加頂き開園式が盛大に行われました。
子ども囃子連の笛や太鼓の演奏や餅つき・トン汁・ロケット風船・ヨーヨーすくい等で500名もの地域の方がお祝いに駆けつけてくれました。
此処に至るまで、地域の住民運動として約2300名の署名活動で「寺尾に公園をつくる会」を結成して要請をし、色んな困難を乗り越えて、地域の皆様の夢がついに実現しました。ご協力有難うございました!
開園10周年には更に、遊具の増強や築山の土盛りで充実を図りました。
「公園ボランティア」(現在35人)を結成して清掃や樹木の剪定をしたり、「公園ニュース」を発行したり活動していますが、ボランティアの数も減少傾向です。
これからも地域の皆様と一緒になって公園を守っていきたいと思いますので、どうぞボランティアにご参加下さい。
連絡先 寺尾後原公園の会 代表 豊丹生(ぶにゅう)寺尾273-3
改修工事前の寺尾後原公園
現在の寺尾後原公園
寺尾貝塚について
今から5~6千年前の縄文時代は川越は海に囲まれていて、寺尾台地に立てば、遙かさいたま市の台地まで大海原だったといわれています(縄文海進という)。
後原公園の近くには、三カ所に貝塚が発見され、1~2メートルの深さには、淡水産のシジミが発見されています。
台地の竪穴住居は敵から身を守ったり、食料を得るのに格好の場所だったと推測されます。発掘調査は過去、何回か行われ、縄文人の生活を知る上で大変貴重な歴史遺産であると参考文献に記されています。
寺尾調節池について
平成10年8月27日~30日の台風4号により、新河岸川の不老川合流点付近から九十川合流点に至る間で越水し、浸水家屋が3827戸、(床上1630戸)という未曾有の水害が引き起こされました。事態を重く見た埼玉県は、寺尾地区とびん沼に激甚災害対策事業として調節池の建設を決定しました。
とくに寺尾調節池は単に災害時の保水機能だけではなく
- 自然環境の保護(野鳥は3種の保存、生物や植物)
- 地域の住民の憩いの場(平成27年末に「ニコニコ橋」建設)
として魅力あるビオトープ作りを建設理念としました。
お蔭で現在では野鳥は渓流のひすい「カワセミ」など約80種、生物は60種、植物は約100種と、寺尾地区が誇る自然の宝庫になり、平成20年には川越市の「自然100景」に指定されました。
毎日、朝晩には地元の方々が散歩や自然散策に訪れ、声掛けあう素晴らしい憩いの場となっています、平成11年に着工して平成15年3月に完成しました。
外観図
日の出
秋の風景
新鷹匠橋
寺尾調節池の東側のふじみ野市立元福岡小の脇には、昔から「鷹匠橋」という木製の小ぶりの橋があり、江戸時代に徳川家康や家光が喜多院の天海僧上を訪ねた折に「鷹狩り」をしたと言われています。
又、寺尾には鷹匠が住んでいた記録が残っているので、調節池辺りは格好の猟の場所であったに違いありません。その名残りで、調節池には「新鷹匠橋」が建設され、眼下の池には保育園児や幼稚園児がザリガニや小魚を釣る姿が毎日みられます。
新鷹匠橋下の美化運動
園児のザリガニ釣り
ニコニコ橋
調節池の東南の土手下に平成27年末に木道「ニコニコ橋」が完成しました。
早速、自治会主催で渡り初めのお祝いをしました。
「ニコニコ橋」という名前は寺尾小学校の3年生がつけてくれました。3年生は毎年、3組くらいに分かれて自然観察や調節池の歴史、池の美化運動をしてくれます。
橋の両側には花が咲き乱れ、野鳥が囀っています。
渡り初め式典
寺小生の自然観察風景
墾田の碑
寺尾調節池の東南の道路脇(旧セブンイレブン近く)に堂々とした石碑が立っています。
寺尾調節池の近傍には江戸時代には水車小屋が2軒あり、水が沢山湧き出る、いわゆる湿地帯でした。昭和10年(1935年)には国の奨励で米つくりの為に開墾し、約15ヘクタールの痩せた土地が水はけの良い素晴らしい稲穂が採れる田んぼ(美田)に生まれ変わりました。
地域の有力者が組合をつくって国や県と力を合せ、苦労して黄金のお米つくりが出来たわけです。その努力に対して埼玉県から表彰されたことが、この墾田の石碑に記念として刻まれています。
昭和20年頃の田んぼの航空写真を見ると調節池の周りには家が全くありません。
墾田の碑
昭和20年頃の航空写真